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晴れランタン

「恋愛+何か」なBL小説を書いている灯束きはれ(ともづかきはれ)のブログになります。

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『とある金魚の見る夢』(短編小説)


編集者の俺は傲慢な先輩編集者・殿川とともに、新人作家・阿久田の元を訪ねるが……。
※血の描写などがあるため、苦手な方はご注意下さい。
「古典作品のオマージュ」がテーマの賞に以前応募した作品になります。
(オマージュ作品『地獄変』)



 
 殿川という「編集者」は、実に駄目な「人間」である。
 いや、これはもはや編集者以前の問題だ。
 無駄に分厚い肉のついた肩で、まだ蒸し暑さを含んでいる風を切って前を歩く殿川は、俺にそんなふうに見られているなど、露ほどにも思ってもいないだろう。
 殿川は小説雑誌「霜夜」の編集者の中で、最も秀でた編集者であると自負しており、そのことをまったく隠そうともせず、他社の小説雑誌の表紙にある作家の名前や、本屋の平台に積まれた本を指さしては「こいつは俺が育ててやった」と唾を飛ばし、出っ張った腹を突き上げるように揺らし、自慢してくるのだ。
 しかしながら、それはあくまでも殿川自身が、勝手にそう思っているだけの話である。
 実際のところ、彼らが雑誌の表紙を飾るベストセラーを生み出すことができたのは殿川のおかげなどではない。むしろ殿川のせいで「ベストセラー」と言われている作品が、この世に出回ることはなかったかもしれないのだ。
 そんなことに殿川が気づくわけもなく、ぶつぶつと文句を言いながら、良い言い方をするならば古めかしい、悪く言えば随分ボロい、そんなアパートの外階段を上がっていく。
 錆色の金属の階段は夏の陽射しに晒されて熱を帯び、手すりに置いた手の平を焼く。その熱さに小学校の校庭に端にあった鉄棒を思い出した。
「ったく、どうして俺が、わざわざ」
 ふうふうと荒い息を吐きながら階段を上っていく殿川の後ろを、俺は何も言わずについていく。いくら二十代前半と三十代後半の違いがあるとは言え、たかが二十段あるかないかくらいのゆるやかな階段を上れないとは情けない。
 どうにか階段を上りきった殿川は、その体格には細い廊下をせまそうに進んでいき、一番端にある薄っぺらい鉄板をはめ込んだようなドアを叩いた。
「おい、いるんだろ! とっとと出てこねぇか!」
 キーボードを打つのにも一苦労しそうな太い指が丸められた拳は、出来そこないの丸餅のようだが、それなりの威力を発揮するようで、ドアを叩く音が周囲に響き渡る。
 趣味がいいとは言えない、よくわからないワッペンで飾りつけられたグレーのポロシャツにジーパンを履いている太った男に、入社式に着ていた黒いスーツと似たジャケットにズボンの俺。
「いんのはわかってんだよ。約束のものがあんだろ! 電話も無視しやがって、何様だと思ってやがる!」
 そんな組み合わせと殿川の物言いもあり、端から見れば、性質の悪い借金取りのようだ。
 今の時代の流れもあってか、中には自分が作家であることを周囲に隠している人は多く、このような近所迷惑な原稿の催促はするべきではない。
 先輩から聞いた話によれば、実際、殿川は原稿の催促に行った先で借金取りに間違われ、近所の住民に警察へ通報されたことが何度かあったらしい。
 しかし殿川は「俺を見て編集とわからない無能な警察が悪い」と言動を改める発想はなく、そんな殿川だからこそ、周囲から「殿様」と皮肉を混ぜたあだ名をつけられることになるのだが、その皮肉は殿川にまったく通じておらず、むしろあだ名を気に入る始末なのだからどうしようもない。
 殿川がどうなろうが、俺の知ったことではないが、巻き添えを食うことだけは御免こうむりたい。そもそも俺は編集者ではなく、作家になりたかったのだ。
 口先だけの夢ではない。小説を執筆し、何度も投稿してきたが、結果は一番いいもので最終選考。そうこうしているうちに、就活の時期になり、とりあえずと受けた今の出版社に採用された。「本が好きで、少しでも本に関われる仕事がしたい」というのが志望動機だが「編集の立場から編集者の目に留まりやすい作品を研究したい」という理由もあった。
 しかし、この数か月で分かったことと言えば、この出版社を選んだのは間違いだったということだ。これならば、両親に頭を下げて留年するなり何なりして、投稿を続けていた方が有意義だったかもしれない。
 殿川の尻拭いのせいで、連日残業を強いられていた俺は湧き上がってくる苛立ちを押さえ込み、ドアに向かって暴言を吐き続ける殿川に声を掛けた。
「先輩、俺が変わります」
「あ? お前みたいな素人に、何ができるって言うんだ?」
「素人が出し出がましいとは思いますが、このままでは先輩の手が傷むのではないかと心配で」< 嘘八百もいいところだ。
 素人の俺にすら作成できる書類ひとつ、まともに作れない殿川の手が砕けたところでどうでもいいのだが、俺の言葉に殿川は気を良くしたのか、ドアを叩く手をとめた。
「そ、そうか。まぁ、やってみろ。仕事は何事も経験だ」
「はい」
 殿川に場所を譲られた俺は「724」と部屋番号が書かれたプレートの隣にあるインターフォンを押した。少しかすれ気味のベルの音が響くのを確認して、俺は話しかけた。
「お世話になっています。霜夜の殿川と、その後輩の者です。近くまで来たので、急ですが、ご挨拶をと思い、お邪魔させていただきました。よければ俺も一度ご挨拶させていただきたいのですが、いかがでしょうか」
 丁寧な言い方が気に食わなかったのか、殿川の舌打ちが聞こえてきたが、ある意味これは飴と鞭のようなものだ。ここで俺まで同じような言い方をしてしまえば、ドアを開けてもらえる可能性は消え、かわりに警察を呼ばれる可能性は一気に跳ね上がる。
 とは言え、これはもはや賭けであった。
 ドア越しとは言え、あれだけ一方的に怒鳴りつけられ、その相手がドアの向こう側にいるとわかっていて、果たしてどれくらいの人間がドアを開けてくれるのか。
 俺ならばドアを開けず、躊躇なく警察に電話をするだろう。開けるとすれば、よほどのお人好しか、腕っぷしに自信がある人間のいずれかにちがいない。
 そんなことをつらつらと考えていると、鍵の開く音が聞こえた。
 それに驚く俺の前でゆっくりとドアが開いたかと思うと、数十センチ開いたあたりでドアは動きをとめた。
 ドアノブの少し上あたりを、錆色のチェーンが俺を拒むように横切っている。
「新しい担当さん、ですか?」
 チェーンで守られたドアの隙間から顔をのぞかせたのは、俺と年齢の変わらないように見える男性だった。
 刺繍をしている途中で失敗してしまった糸の固まりを思わせる黒い髪に、白い半袖シャツ。細い身体がさらに細く見えるのは、足にぴたりと沿う細身のジーンズのせいだろう。素足にはサンダルを履いている。
「突然すみません。それに先程のことも」
「いえ、慣れてますから」
 それきり会話は途切れた。
 名前でも口にすれば、次の会話への糸口にくらいにはなったのかもしれないが、驚くことに、俺はドア越しに対峙する作家の名前を知らなかった。
 自分が担当する作家だからと、ここに来る途中、殿川に作家について教えてくれるように頼んだものの「はぁ?」と言われて、それっきりだったため、作家の名前はおろか、どんな人なのかという予備知識すら持ち合わせていない。
 何故、そのようなことになっているのかと言えば、それには殿川が「自分よりも下」だと思った人間の名前を覚えないことが関係している。
 そのため、殿川が大半の人間を呼ぶ時は「おい」や「お前」だ。後輩である俺も前例に漏れることなく、入社して殿川の下につかされ、数か月がたった今でも名前を呼ばれたことは一度もない。
 そのせいか、仕事場で名前を呼ばれると違和感を抱いてしまう始末で、この時ほど人間の名前の重要性について感じたことはなく、だからこそ、今目の前にいる彼の名前がわからないことを本人に知られる事態だけは、どうにか避けたかった。しかし殿川が助け船を出してくれるはずもない。
 丸い大きな眼鏡のレンズから逃げるように、視線を反らした先にあったのは木の表札だった。表札と言っても、どこかで入手してきたらしい少し小さめの木の板には、お世辞にもあまり上手いとは言えない字体で名前が書かれていた。
「阿久田さんですか」
 筆で書いているにもかかわらず、細くひょろりとした字体は、彼の見た目に違うことはなく、むしろ似合いのものに思えた。
「はい。本名で活動しているので」
「そうだったんですね。いいと思いますよ、文豪と似た名字で」
 俺がそう言うと嬉しかったのか、阿久田の緊張が和らぐのがわかった。
「あの、あなた、名前は」
「これは失礼しました。俺は」 
 阿久田に問われ、ジャケットの胸ポケットから慌てて名刺入れを取り出し、名刺を手渡そうとするが、俺と阿久田の前に割って入ってきたのは殿川だった。
「いるくせに居留守使ってんじゃねぇぞ、阿久田!」
 殿川に阿久田は怯えるように肩を揺らし、名刺を受け取ろうとしていた手を引っ込めてしまった。
「この暑い中、わざわざ来てやってんだ、手間かけさせんな」
「す、すみません」
「で、足を運んでやった俺を、ここで帰すつもりか?」
 殿川の言葉に阿久田はためらいながらもドアのチェーンを外した。
 チェーンが外れたはずの音は、まるで監獄のドアが開いたように聞こえた。
「どうぞ」
「ったく、さっさとこうしてればいいんだよ」
 か細い声を踏みつけるように殿川は靴音をさせて、まるで自分の家のように阿久田の部屋に上がり込んでいった。
 一体どうすればいいものかと考えたものの、阿久田の様子からして殿川とふたりきりにするよりかは幾分かマシだろう。そう判断した俺は「お邪魔します」と声を掛けて、阿久田の部屋に上がり込んだ。
 三人分の靴を置くだけでタイルが埋まる玄関から予想はしていたものの、阿久田の部屋はお世辞にも広いとは言えない。鳥が飛んでいる日に焼けたふすまに土壁、部屋の隅に畳まれた布団、本の重みで真ん中がゆるやかに曲がっている危なっかしい本棚と、まるで文豪の部屋にでも迷い込んだみたいだ。
 部屋の真ん中に置かれた丸いちゃぶ台の真ん中には執筆途中の原稿用紙と部屋に少し不似合いに思える高級そうな黒の万年筆が添えられ、そのそばには涼を感じる小さな金魚鉢が置かれていた。
 擦りガラス越しの光を帯びて輝く金魚鉢の中を悠々と泳いでいる一匹の赤い金魚が、暑苦しい殿川の隣に座っている俺には少し羨ましかった。
「手書きで原稿を書かれているんですか?」
「えぇ、一応パソコンは使えますけど、慣れているせいか、手書きの方が進みが早くて」
「進みが早いだと。亀並の速度のくせに、よくそんなことが言えるな」
「すみません」
 阿久田は何度目になるかわからない謝罪の言葉を口にした。
 殿川は遅いと言うが、手書きでこのペースならば、むしろ早い方ではないのか。
 表札と同じ文字でマス目が埋められた原稿用紙の束にそんなことを思うが、殿川の阿久田への言葉がやむことはない。
「それで、原稿はどうなってる?」
「いえ、それが」
「できてないのか?」
「はい、すみません。ミステリーを書くのは初めてで」
「ふざけるな!」
 阿久田が頭を下げるのを見た殿川はちゃぶ台に拳を振り下ろした。
 木とガラスがぶつかり合う音を響かせ、金魚鉢が畳の上へと転げ落ちた。落ちた先が畳だったおかげか、金魚鉢が割れることはなかったが、先程まで鉢の中を我が物顔で泳いでいた金魚は安寧を失い、水を吸った畳の上で尾ひれをばたつかせている。
「お前を拾って、デビューさせてやったのはこの俺だろう。なのに、お前ときたらすみませんすみませんばかり。謝る暇があるなら、とっとと書け!」
「殿川さん、落ち着いてください」
「大体、こんなものにこだわっているから、お前は駄目なんだ!」
 殿川が手を伸ばしたのは、阿久田の万年筆だった。
「っ、返してください!」
 この時、俺は初めて阿久田の大きな声を聞いた。
「それは僕の大切なものなんです」
「お前の事情など知るか! そうやってくだらないことにこだわるくらいなら、とっとと捨てちまえ、こんなもの!」
「……こんなもの?」
 殿川の発した一言に、阿久田の顔からは、すっと表情が消えた。
 無のはずの阿久田の顔が、俺にはひどく恐ろしいものに思えてならない。
 俺は何も言えず、ただじっと、目の前に広がる光景を見ていることしかできなかった。
「これまであなたの言うことに従ってきました。どんな理不尽にも耐えてきました。こんな俺をデビューさせてくれたのは、本当だからと、勝手にデビュー作を書き換えられようが事あるごとに怒鳴りつけられようが耐えてきました……でも大切なものまで馬鹿にされて……もう黙ってなんていられるか!」
 そう叫ぶと、阿久田は万年筆を手にしたままの殿川に殴りかかっていった。
「返せよ、それは僕の大切なものだ。お前みたいなやつにさわられたくない」
 殿川は阿久田が自分に反抗してくるとは思ってもいなかったようで、最初はあっけにとられていたものの、すぐに応戦の構えを見せた。
 殿川の太い指と阿久田のペンだこのある細い指が組み合う。
「お前、俺にこんなことをして、どうなるかわかっているのか!?」
「地獄へでも落ちますかね。でも、それはやることを終えてからの話です」
「なんだと?」
「言いましたね、僕の作品には、もっとリアリティーが必要だと。くだらない妄想ばかりしていないで現実を見ろと。だったら、あなたがそれを体験させてくださいよ」
「お前、何を言って」
「せめて、それくらいはしてくださいよ。あなた、それでも僕の担当編集でしょう。それにあなたはさっさと原稿がほしかったんですよね。なら、手伝ってくださいよ。あなたが死ねば、すぐに、いくらでも書いてあげますから」
 それは一瞬のようだったが、俺の目には阿久田が降り降ろす手の動きが、作品をつむぐための金の切っ先の輝きが、左胸に万年筆が突き刺さった殿川が倒れていくさまが、連続してシャッターが切られた写真のように見えた。
 木が倒れるのにも似た音と共に、殿川の身体が畳の上に倒れ、それを合図にしたかのように俺と阿久田は元の世界に戻ってきたのだと、そう思った。
 殿川が物言わぬものになったからか。
 これまで気づかなかったセミの鳴き声に、その声が自分の居場所を周囲に知らせるためのものだということを思い出した。
 殿川もセミと同じように、自分の存在を知らしめるために必死だったのだろうか。 
 ただ、セミとはちがい、わめき散らすしか能がなかった殿川には同情も何の気持ちも湧いてはこない。それこそ道の真ん中に腹を見せて転がっているセミに対しての方が、何らかの気持ちを持つことができる。 
 阿久田はしばらく殿川をながめていたが、ちゃぶ台の前に腰を降ろし、途中で文字の止まっていた原稿用紙を眺めていたかと思うと、万年筆を白いマス目に走らせ始めた。
「少し待っていてください。書き上げてしまいますから」
 セミの鳴き声にペンの走る音が重なり、やがて部屋の中にはペンの音だけが響く。
 作家は殺そうと思えば、人を殺すことができるが、それはあくまでも「物語」の中での話であり、殿川を殺したばかりの手が、物語を生み出していることが不思議だった。
 殿川の腹から血が噴き出す穴はその身体に似合わず小さく、これだけの血が流れてもその腹がへこむことはないのだと、この時、俺は初めて知った。
「今なら、俺もいい作品が書けそうなのにな」
 畳の目をつたい、足元へと広がってくる血を眺めながら、この場に自分のノートパソコンがないことを悔やむ俺を血の海に浮かんだ金魚が恨めしそうに見ていた。
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