繁忙期を終えた葵は疲れた身体を引きずるように一緒に暮らす恋人・忍が待つ家に帰るが、葵を出迎えてくれた忍の様子はいつもとはちがったもので……。
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「……疲れた」
アパートの階段をのぼりながら、葵はつぶやく。
繁忙期も今日でようやく終わりを告げ、気持ちこそ解放感に溢れてはいるものの、心身に蓄積された披露のせいか、二階までの階段をのぼるのも一苦労だ。
(でも、これをのぼりきれば……)
のぼりきった先に待っているものに思いを馳せながら、ようやく最後の一段をのぼり終えた葵は着ているスーツと手にした鞄を放り投げてしまいたい気持ちを抑え、廊下を突きあたりまで進んでいく。
――階段からは一番遠い、二階の一番端の部屋。
廊下に面した格子がついた窓の内にはあかりが灯り、おいしそうなにおいとともに、かすかに鼻歌が聞こえてくる。
聞こえてくる鼻歌は少し音が外れてはいるものの、休みの日にふたりで見に行った映画の主題歌だと気づく。
そのことに少し照れくさくなりながらも、葵はポケットからおそろいのキーホルダーがついた鍵を取り出し、ドアの鍵穴に差し込む。
しかし葵が鍵を回すよりも先にドアが開いた。
「葵!」
「おっと!」
玄関から勢いよく飛び出してきたのは、同じ部屋で暮らす恋人の忍だった。
とっさに腕を伸ばして忍を受けとめた葵だったが、人に見られそうな場所でスキンシップを取ることをあまり好まない忍のこの行動はひどく珍しい。
しかもよく見れば、料理の最中だったのか。Tシャツとスウェットのズボンの上に紺色のエプロンをつけたままで、さらにその手には料理に使っていたお玉を持っている。
「どうしたんだ、忍」
「よかった、葵が帰って来てくれて……」
そんなにも自分の帰りを待っていてくれたのか。
葵が思ったのも束の間だった。
「……Gが出た」
「G?」
新しいゲームのタイトルか何かだろうか。
忍はプログラマーという職業柄、ゲームには詳しいが、葵はというと一緒にゲームはするものの、そこまで詳しいわけではない。
「ごめん。Gって、何のゲーム?」
「ゲームじゃない、ゴキブリ! ゴキブリが出た!」
「……ゴキブリ?」
「とにかく早く退治して!」
「なるほど、それでGなのか」と感心している葵をよそに、忍は家の中にいるゴキブリが気になっているようだ。
忍の虫嫌いは以前から知ってはいたが「おかえり」や「ただいま」よりも先に出てくる言葉が、よりによってそれなのか。
最近忙しかったからと、今日は少しでも早く帰って、ふたりでゆっくり過ごそうと、人でぎゅうぎゅうに詰まった電車に揺られて帰ってきた自分がなんだかひどく虚しく感じられた。
「ゴキブリくらい自分でどうにかすればいいだろ……ずっと家にいるくせに」
最後に余計なひと言がひっついてきたのは、満員電車に揺られた疲れが葵の中にあったからだ。だからこそ、そんな言葉が葵の口から出てしまった。
「何、その言い方……こっちだって、何もせずに家にいるわけじゃないのに」
これまでゴキブリに怯えていた忍の口調に苛立ちがこもる。
ここでやめておけばよかったのかもしれないが、たまっていた疲労からくる苛立ちもあり、葵の言葉がとまることはなかった。
「いいよな、忍は。俺や普通の人とはちがって、満員電車に揺られることも面倒な上司に絡まれることもなくて。家で好き時間に、好きなように、好きな仕事ができて、楽でさ」
「なにそれ……」
忍の表情に葵は自分が今、何を言ったのかにようやく気づく。
忍だけではない。忍の仕事を馬鹿にしたのも同じことだ。
「苛立っていた」という理由が言い訳になるはずもないことは、葵をにらむ忍の目が何よりも物語っていた。
「たしかに家での仕事だよ。満員電車に揺られることもない。毎日会社の机に座って仕事をしてる葵より楽かもしれないし、そう思われても仕方ないかもしれない。でも、だからって、自分の仕事が楽だなんて……」
「ちがう、今のは……」
「葵よりも時間あるくせに、ゴキブリの一匹も殺せなくてごめん。自分でどうにかするから」 「待て」
「あと、普通じゃなくてごめん……」
「忍!」
慌てて手を伸ばしたものの、葵の目の前でドアは閉められた。
鍵が掛けられる音はしなかったものの、今の葵に忍と合わせる顔などあるはずがない。
ため息をつき、葵は行き場をなくした手でドアにふれる。
本当ならば、今頃は忍の作ってくれた夕食を一緒に食べていたはずだった。
それがこんなことになってしまったのは、他でもない自分のせいだ。
(あんなことを言うつもりはなかったのにな……)
――自分が早く帰ってきたことを喜んでくれると思っていたのに、喜んでもらえなかったから。
何故、あんなことを言ってしまったのかという理由を考えてみて、浮かんできたその答えのあまりの幼稚さに葵は愕然とした。
仮にもこれが二十五歳の男の考えることだろうか。
これでは好きな子をいじめる男の子と、まるきり同じではないか。
「何やってんだろ……」
もちろん忍の仕事が楽だとも思っていない。
ゲーム好きが高じて、忍がプログラマーの仕事を選んだことは知っている。
その仕事にたどり着くまでの道のりは葵と同じ、またはそれ以上に厳しいもので「フリー」という立場の忍は葵とはちがい、会社も誰も常に味方でいてくれる人はいない。
仕事の締め切りが近ければ、朝方まで部屋の電気が点けっぱなしになっていることも珍しくはなく、それでも葵が起きる時間に合わせてテーブルの上には朝食と弁当がちゃんと用意されている。
葵の起床と帰宅と同時に家の中に漂っているおいしそうなにおい、入浴剤の入ったあたたかな風呂、用意されている清潔な着替えやいい香りのするタオル。
いつの間にか葵は慣れてしまっていたのだ。
――仕事と家事の両立。
それがどれだけ大変なことなのか。
わかっていると思っていたはずが、何ひとつわかっていなかった。
そうでなければ「普通」などという言葉が出てくるはずがない。
同い年だというのに、忍の方がよっぽど葵よりも大人でしっかりしている。
それを思えば、ゴキブリが苦手なことくらい可愛らしいものではないか。
(……殺虫剤買って来よう)
階段を下りていく足取りは、先程よりもひどく重く感じた。
夜中近くまで空いているドラッグストアがこんなに有難いと思ったことはなかった。
思えば、今のアパートへの入居の決め手になったのは徒歩圏内にあるこのドラッグストアだったと、買い物カゴをぶら下げながら思い出した。
「近くにドラッグストアがあった方が、何かあった時にすぐに薬を買いに走れるから」とそう忍は言っていた。
それを聞いた時の葵は「何かあった時ってなんだよ」と笑っていたが、実際、葵に何かあれば、それこそ真夜中だろうが何だろうが、忍はドラッグストアに走るつもりだったのだろう。 (それなのに、俺は……)
仕事帰りとは言え、ゴキブリ一匹退治するのに文句を言う恋人。
徒歩十分の距離とは言え、夜中でもドラッグストアに薬を買いに走る恋人。
どちらが「最低な恋人」であるかはあきらかだ。
自分に情けなさを感じながら、葵は殺虫剤をカゴの中に放り込んでいく。
置くタイプのものやスプレータイプなど、随分色々な種類がある。
それはそれだけ多くの人が悩み、それを必要としているということであり、その多くの人と忍も同じだったのだ。
ひとりで家にいる最中にゴキブリに出くわし、どうしようとうろたえ怯え、殺虫剤で必死に対抗する、殺虫剤を求める人達と。
どうして、そんな簡単なことに自分は気づかなかったのだろう。
更なる自己嫌悪に陥りながら、葵は冷蔵コーナーで一番高いプリンをふたつカゴの中に追加すると、レジへ向かった。
殺虫剤とプリンが入ったビニール袋を手にぶら下げて、葵はアパートへと向かう。
今頃、忍はどうしているのか。
そんなことを思いながら歩いていた葵は足を止めた。
目の前にある電柱に背中を寄りかからせていたのは忍だった。
どれだけ近くに出かける時でも、忍はわざわざ着替えて出掛けるのだが、今、葵の目の前にいる忍はエプロンを取っただけで、部屋着のままだ。
「忍、どうして……」
「……迎えに来た」
「迎えにって、夜にひとりで危ないだろ」
「それを言うなら、葵だってそうだし」
そう言われて返す言葉を探す葵に忍は続ける。
「大丈夫じゃないかもしれないけど大丈夫だよ。男なんだしさ、俺達」
その一言に、葵は忍の元に駆け寄った。
「さっきはごめん。あんなこと言うつもりはなかったんだ。忍が俺のためにしてくれてることが普通になってて。忍だって、仕事が大変なこと、わかってたはずなのに」
「いいよ、こっちこそごめん。せっかくの記念日に葵が早く帰ってきてくれたのに、おかえりも言わずにゴキブリ退治なんか頼んで」
「記念日……」
忍に言われて、葵は初めて今日で付き合って三年になることに気づいた。
「ごめん、今日が記念日だって忘れてた……」
「べつにいいよ。自分が勝手に祝いたかっただけだし。それに記念日とか、まぁ、関係ないって言えば関係ないし」
忍は眉を下げ、少し困ったように笑った。
「あ、でもケーキだけでも食べてくれたら嬉しいかな。こんな遅くに食べたら太るかもだけど」 「食べよう。忍のケーキも俺が買ってきたプリンも両方。今日は大切な記念日だからな。記念日を祝うのは普通のことだろ」
「うん、そうだね」
プリンがふたつ入った袋がぶら下がる手を伸ばすと、忍の手が重なった。
繋がれたふたりの手の間で白い袋が揺れる。
葵のもう片方の手からは歩くリズムに合わせて、殺虫剤のスプレー缶がぶつかる音が聞こえてくる。
そのリズムに重ねるように、ふたりはゆっくりと家に向かって歩いていく。
「忍……」
「ん?」
「俺と結婚してくれ」
「どうしたの、突然?」
「言っとくけど、俺は本気だからな。好きな人とずっと一緒にいたいって思うのは普通のことだろ」
「……葵とはもう家族みたいなものだって思ってたけど、やっぱりちゃんとプロポーズしてもらうのって、こんなにも嬉しいんだね」
忍は照れ隠しのように白い袋を揺らした。
婚姻届が出せなくても、互いの指に光る指輪がなくても。
たとえ互いを繋いでいるのがドラッグストアの袋で、その中身が殺虫剤とプリンだったとしても。
これが自分達にとっての幸せなのだと。
そう月に伝えるように、葵は忍の手を繋ぎ直した。